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石だらけの山を「緑の高原」へ ― おおや高原開墾、10年の奇跡
標高600メートルの挑戦。総事業費23億円をかけた大プロジェクトの全貌
兵庫県中北西部、養父郡大屋町(現・養父市)。標高350メートルから680メートルに位置する「おおや高原」は、かつて岩石の多い山林でした 。昭和53年(1978年)、この冷涼な高地を関西有数の夏野菜・花き・畜産団地へと変えるべく、兵庫県営農地開発事業が幕を開けました 。構想から完成まで、自然との闘いとも言える10年間の記録を追います。

1.【昭和53年~(1978年~)】 始動:巨額を投じた「山成工」への挑戦
プロジェクトの対象となったのは、八木川と大屋川に挟まれた142.6ヘクタールという広大な山岳地帯です 。 昭和53年度、いよいよ本格的な工事が始まりました。この土地は固結火成岩や蛇紋岩といった固い地質であり、開墾は困難を極めることが予想されました 。

「石との闘い」 開墾の初期段階は、まさに土と石との格闘でした。傾斜のある山を農地にするため、地形を活かしつつ平坦にする「改良山成工(かいりょうやまなりこう)」や「階段工」が採用されました 。 資料にある標準断面図からは、雑物を除去し、石礫(せきれき)を取り除き、耕起して土壌改良を行うという、気の遠くなるような工程が繰り返されたことが読み取れます 。

この時期、農地造成費は年々増大し、特に昭和55年度には単年度で約2億円が投じられるなど、工事は急ピッチで進められました 。
【昭和55年~(1980年~)】 命脈:水を高地へ運び上げる
高原農業にとって最大の課題は「水」の確保でした。 中腹にあるため池(貯水量5,000トン)を改修し、そこからさらにポンプで水を汲み上げる壮大な計画が実行されました 。

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第1段階: ため池から揚程157メートルを一気に汲み上げます 。
第2段階: さらに第2ポンプで132メートル高い場所へリレーします 。

こうして全揚程289メートルを駆け上がった水は、山頂付近の配水槽から自然流下により、張り巡らされたパイプライン(総延長22.3km)を通って各畑の給水栓へと届けられる仕組みが構築されました 。これにより、スプリンクラーによる散水が可能となり、高原野菜栽培の基礎が固まりました。

【昭和57年~(1982年~)】 整備:道なき山に「動脈」を通す
農地ができても、作物を運び出す道がなければ農業は成り立ちません。 昭和50年代後半にかけて、総延長約20キロメートルにも及ぶ道路網が整備されました 。 幅5.5メートルのアスファルト舗装された幹線道路(約9km)が山を貫き、そこから各畑へと続く支線道路(約11km)が毛細血管のように張り巡らされました 。これにより、大型トラクターの導入や出荷トラックの往来が可能となり、近代農業への道が開かれました。

【昭和62年(1987年)】 完成:新たな農業スタイルの確立
昭和53年から始まった工事は、10年の歳月と総事業費23億600万円をかけ、昭和62年度に完了しました 。 完成した91.6ヘクタールの造成地には、以下の作付計画が立てられました 。
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野菜(43.8ha): 夏の冷涼な気候を活かした夏大根、レタス、グリーンアスパラガス 。
花き(16.8ha): 色鮮やかに育つユキヤナギ、リンドウ、小菊 。
飼料作物(31.0ha): 繁殖和牛のためのソルゴーや牧草 。
「通勤農業」という新しい形 この開墾事業によって生まれたのは、農地だけではありませんでした。農家の住居は麓の町にあり、そこから3〜12キロを通って高原へ働きに出る「通勤農業」というスタイルが確立されました 。 完成後の試算では、作物の生産効果は約1億7千万円、所得償還率は18.6%と見込まれ、南但馬地域の農業構造改善のモデルケースとなりました 。

【編集後記】
かつて石ころだらけだった斜面は、ビニールハウスが立ち並び、有機農業の産地へと姿を変えました。この大事業は、単なる土木工事ではなく、地域の農業従事者の「意欲の高揚」と「経営規模拡大」を目指した、未来への投資だったと言えるでしょう 。
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